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チンパンジー言語訓練ブログ

このブログは私(チンパンジー)の言語訓練に用いられます。

カネの民法離れの最も大きな原因はHDDではないだろうか

言語訓練 随想

最近、民法には金が足りていないようである。民法の番組を見れば、そのつまらなさ、チープさから誰もが気づく事だろう。その原因を作っているのは、エンタテイメントの多様化によるテレビ離れとも言われている。だが私は、その最大の要因はHDDの普及であると思う。

民法は、広告収入が収入源である。CMを見てもらわない事には民法は始まらない。しかし、HDDの普及によって、テレビの視聴スタイルは大きく変化した。毎週自動で録画予約をしてくれたり、簡単にデータが消せたり、容量が一杯になれば自動でデータを削除したりと、録画に関する面倒な手続きがなくなってしまい、録画が視聴形態の主流へ取って代わったと思われる。そして録画では、当然CMは早送りである。つまり録画主体の視聴形態という状況下では、テレビCMの宣伝効果は非常に低いのである。魅力的な宣伝媒体でなくなったテレビCMの価格は下落したに違いない。そのあおりを受けて制作会社へ回る資金も減少、テレビ番組のクオリティが落ち、他のコンテンツへの流出を加速させ宣伝効果が落ちる…という悪循環に陥っているものと思われる。

生で見るべき番組(スポーツやニュース)以外は、全部録画で見られているという前提で話を前に進めない限りは、この悪循環から抜け出す手立てはないだろう。

(このブログは私の言語訓練に用いられます)

省力化を昇華させるアニメーション ~けものフレンズ、団地ともお、輪るピングドラムなどを例に挙げて~

言語訓練 随想

昨今の人手不足や資金不足に苦しむアニメーション業界。資金を十分に得る事のできないアニメーションは当然、省力化を迫られることになる。省力化となればほとんどの場合、アニメーションのクオリティは落ちてしまう。作画崩壊、不自然な背景、ポリゴン臭さを隠せない3D映像などを目にする事は、(資金が不足しがちなマイナーなアニメーションを見る人には)おそらく多いのではないだろうか。

しかし、省力化によって出てしまう粗を逆にその作品独特の雰囲気として生かすアニメーションも多く表れているように思う。

その最もたる例は「秘密結社鷹の爪」だろうか。フラッシュを用いたチープなアニメは、チープなギャグとの相性抜群である。同じくフラッシュアニメのチープさを雰囲気として生かしているアニメーションでは、トリガーの「ニンジャスレイヤー」などが思いつく。フラッシュのチープさを生かした作品は、鷹の爪の影響なのか、意外と多い。

雰囲気を作ろうとした結果、図らずも省力化できたのかもしれないと思うほど、省力化から雰囲気を生み出したアニメーションもある。「輪るピングドラム」だ(雰囲気作りか省力化、どちらが目的かは分からない)。この作品では、主要な登場人物以外の「モブキャラクター」を全て、ピクトグラムにしてしまったのだ。表情も無ければ、動きも一切無い、ただの人間マークである。それによって、物語の世界に主要な登場人物たちしか存在していないかのような、孤独な雰囲気(人込みの中の孤独と言えばいいだろうか)を醸し出す事ができている。加えて大幅な省力化を達成している。

団地ともお」は、ほぼフル3DCGアニメである。しかし、そのCGのクオリティは、お世辞にも高いとは言えない。初めて見れば絶対に違和感を覚えるものと思われる。2Ðにしかできないようなデザインのキャラクターを無理やり3Dにあてはめている感じや、リアルとファンタジーのちょうど中間をゆく絶妙な重量感が感じられる。動きもリアルなようであり、デフォルメなようでもあり、俗に言う「違和感マックス」だ。しかし、ストーリーやセリフ回し、カメラアングルや背景の使い方、音楽や効果音に至っても徹底されており、原作の漫画以上の非常に繊細でリアルな心理描写を行っている(もちろん声優の演技も超一級品だ)。数話見れば、違和感は消えさり、そのストーリーや演出に魅せられることになるだろう。その頃には、違和感を覚えさせていたモノは、ありきたりな日常を表現するする「素朴さ」を感じさせるモノになっているはずだ。何気ない日常の素朴さを表現するのは、徹底的なモーションの観察によるアニメーションでは難しい事がある。言い方が難しいのだが、「素朴な雰囲気をリアルに描写する」と、「リアリティのある素朴な雰囲気を作品に帯びさせる」は別の事のように感じる。

(落語家がそばを食べる動きを細かい観察によって上手に真似るというのをよく見るが、それが上手ければ上手いほど、「そばを食べている」から離れて、「そばを食べる素晴らしい演技をしている」に近づいているのと同じような感じであるのだが、共感できる人はいるのだろうか…自信が無い)

とにかく見ればわかるのだが、団地ともおは、省力化によって、決してチープさではなく、リアルな素朴さを得ることに成功している。

そして、最近話題なのが「けものフレンズ」だ。現在時点で未完結(11話)であるが、細かく作り込まれた構成や、微妙に怖さをも感じさせる演出、毒素が少なく誰もが嫌悪感を覚えずに楽しく見られるストーリーが評判である。しかし、アニメーションだけで言うと、このアニメ、とにかくチープである。この種のアニメは本来、「カワイイ」で押していくタイプのアニメなのだろうが、正直それでやっていくには厳しいレベルのチープさである。となれば話題にならず流れていくアニメの一つになるかと思いきや、この評判である。私の好きなアニメ団地ともおの関係者がストーリー構成を担当していると聞きつけ、話題のこのアニメを見てみたのだが、なるほど、おもしろい。頭を空っぽのままに楽しく見終われるアニメだと感じた。このアニメのいいところは、無駄なものが一切入っていない部分だと私は思う。とにかくシンプルで不純物が少ない。それでいて一話一話のストーリーにはしっかりと中身があって、物語が面白い。中盤からは加えて、謎を呼ぶ演出や、ほのかに感じさせていた退廃感を少しずつ強調していくことによって、ストーリーの全体像を緩やかに動かし始める…無駄が一切排除されている。

このアニメのチープなアニメーションは、シンプルでいてほのぼのとさせつつも、どこか骨太なストーリーと相性がいい。上質すぎるアニメーションは時折、ストーリーや演出への集中を邪魔することがあるのだが、このチープなアニメーションは、物語を見せるための手段の一つであることに徹し、物語の上に立って作品の主役をやろうとはしない。それによってストーリーが主役としてより際立っているのではないだろうか。

(半分映画のような、アニメーションのカットを大量に入れ込んだ最近のゲームのストーリーよりも、ドットの小さいキャラクターが文字でしゃべるだけの昔のゲームのストーリーの方が面白く感じるという経験はないだろうか)

以上に挙げたアニメのように、低予算という現実を前向きにとらえて昇華させていけるアニメが今後増えていく事を期待したい。そしてゆくゆくは、アニメーション制作が大衆にとってもっと身近なものに、誰もが容易に自分の考えた物語をアニメーションで表現できる未来が来ることを、私は期待する。

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格差是正はなぜ必要か ~生物学的に見る「自己責任」の限界~

言語訓練 随想

自然界の原則は、自然淘汰、適者生存、弱肉強食である。そしてもちろん、人間も例外ではない。人間とて所詮は生物である。これらの原則は、「自己責任」の名のもとで人間にも適用されるべきである…よって弱者、敗者の救済など必要ない、格差の是正など必要ない…一見、シンプルで説得力のある論に見える。しかし、実際の社会がそうでないことからわかるように、この論が正しいとは言い難い。それは一体なぜだろうか。

その理由は、ヒトという生物が社会的生物であるからである。ヒトは群れを成して生きる生物であり、群れを成さなければとても弱い生物であるからである。

例えば、あなたが大企業に勤めている優秀なヒトであったとしよう。あなたは命の安全がかなり確保されており、食料も難なく手に入れ、住居を持ち、配偶者を持っていて子供もいる。生物としてとても恵まれた状態にある。さて、ではなぜあなたはその状態を手に入れることができたのだろうか。あなたに才能があったから?あなたが努力したから?あなたの親が裕福だったから?それもある。しかし、最も大きな理由は、あなたが社会という群れの一員であるということである。

もしあなたから群れを取り去ったらどうなるだろう。あなたは誰にも頼らずに一人で自分の命の安全を確保できるだろうか。一人で食料を調達できるだろうか。一人で快適な住居を作る事ができるだろうか。不可能である。あなたが今これらを手に入れられているのは、優秀だからではない。何よりもまず、社会という群れに属しているからである。

つまり、ヒトが持つ、生き残るための力、能力は、大部分が社会という群れに由来するものであり、各個体に由来する能力というのは、群れに由来するものに比べ、ごくごく弱いものなのである。

話を戻そう。弱者、敗者の救済、つまり格差是正はなぜ必要か。それは、他の個体と助け合って群れを大きくする事が、自分の生き残るための能力の向上につながるからである。自分が生き残る格率を高める最も効率的で効果的な方法が、自分が属する群れを大きくする事であるから、格差是正が必要なのである。

社会主義共産主義はおそらくこの考えを忠実に実行したものだろう。しかし、ご存知の通り、社会主義は失敗した。

その原因はおそらく、先ほど「ごくごく弱いもの」と私が言った、各個体に由来する能力を、あまりにも軽視しすぎたからである。群れに由来する能力は絶対的なものであると、あまりに信仰しすぎていたのかもしれない。実際問題、どれだけ群れの構成員が増えようとも、その構成員が無能ばかりでは群れは弱いのである。ゼロにどれだけ大きな数をかけても答えはゼロだったのである。

つまり大切なのは、ヒトの能力には、「群れに由来する能力」、「各個体に由来する能力」の二つがある事を認識すること、そして、その二つともを軽視しないことである。要はバランスが肝心なのだ。

あなたの生存能力の大きさ=あなたの属する群れの強さ(規模×各構成員の能力)+その他

ヒトの、二つの能力を最大限に高める絶妙なバランスは一体どこにあるのだろうか。難しい問題である。

社会主義の失敗からも分かるように、格差は必要なものである。格差はヒトの闘争を促し、闘争はヒトの「各個体に由来する能力」を高める。格差がなければ、誰も闘争、努力しないため、「各個体に由来する能力」は落ちてしまう。問題はこの格差の大きさである。

「各個体に由来する能力」は闘争によって高められる。闘争は格差によって発生する。しかし、大きすぎる格差は、闘争を遠ざけてしまうのだ。格差があまりにも大きくなりすぎてしまうと、逆転不可能、つまり無理ゲー状態になってしまうのである。生まれた時の環境や、教育が余りに違っていたら?強い者がメディアを掌握し、弱者に入る情報をコントロールしていたら?そうなるともはや逆転不可能である。逆転不可能なゲームで闘争する者、努力する者はいない。そうなると、「各個体に由来する能力」は、当然ながら下がってしまう。

これは、同じ群れの一員である強い者にとっても、都合の悪いことである。前述の通り、群れの多数の個体の「各個体に由来する能力」が低下するという事は、その群れが弱体化するということにつながり、それは、群れの構成員全員の「群れに由来する能力」を下げることを意味する。

(会社の経営陣が、自分たちの権力を絶対的で犯しがたい逆転不可能なものにしたらどうなるだろう。昇進の望みがなくなった労働者たちは、努力することをやめてしまうだろう。その結果、会社自体が弱体化し、経営陣は困ることになる…といった具合である。)

つまり、格差を逆転可能な無理じゃないゲーに調整することが必要である。どの程度の格差が理想的なのかは私には分からないが、高所得者の子供がよい教育を受けやすい傾向にあったり、被用者は使用者に忠誠を誓う事が美しいとする風潮があったり、メディアがお金という力の影響を受ける構造であったり、「蛙の子は蛙」という、諦めムード漂う言葉がはびこる日本の格差の大きさが、適切なのだろうか。それは個人の考えなので私がとやかく言うべきではないだろう。

ともかく、なんでもかんでも自己責任自己責任と連呼する人々のほとんどは、ヒトの「群れに由来する能力」を軽視している、つまり、自分一人でなんでもできると勘違いしている人に見えてならない。

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消防車

言語訓練 短編小説

私は、「大藻橋ならここをしばらくまっすぐ行けばありますよ」と言いました。男の子は一人で、白いシャツと半ズボンを着ていました。消防車が山の麓に集まったのはそれから何日か後です。大藻橋には幼いころ父に連れて行ってもらい名前は知っていますが、どのように行ったのかは覚えていません。ただ、とても高い橋であった事は覚えています。
(フィクションです)
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証拠採用外の供述 No.xx

言語訓練 短編小説 ホラー

私は、子供をさらって殺すために、その朝、住宅街を歩き回っていました。小学校へ向かう小さな男の子を見つけました。周りを見て誰も見ていなかったのでこの子にしようと決めました。しかし、その子が私に向かって、「おはようございます」と大きな声で笑顔で挨拶したので、私はとても清々しい気分になって、「おはよう。いってらっしゃい」と笑顔で返してその子を見送りました。私は、その清々しい気分のまましばらく住宅街を歩いていましたが、ふと、誰か大人の視線を感じました。誰かはわかりませんでしたがその時、私は子供をさらうためにこの住宅街に来ていたのだと思い出しました。次に見つけた子供をさらって殺しました。

(フィクションです)

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クリエイターは、もういらない ~お金の奴隷解放宣言(笑)騒動について~

言語訓練 随想

みんながスーパーヒーローになったら、スーパーヒーローはもういらない。

ディズニー映画、ミスターインクレディブルの悪役、シンドロームのセリフである。

子供のころはこのセリフの意味がイマイチ分からなかった。何のためにそんな事をするんだろう、金儲けのためかな、としか思っていなかった。現在になって、このセリフには彼のスーパーヒーローへの憧れや妬みなどといった感情が込められていると分かった。スーパーヒーローになりたい。しかし、自分はスーパーヒーローになれない。全ての人間をスーパーヒーローにすることによって、自分を拒絶したスーパーヒーロー、彼が持てなかったスーパーヒーローの「才能」、そしてスーパーヒーローに憧れていた過去の自分自身をも全て否定してやるというのが、おそらくこのセリフの意味だろう。

(彼は便利な、しかし兵器にもなりうる強力な、スーパーヒーロー以上の力を得ることができる道具、ツールを流通させることによって、世の全ての人間をヒーロー化させようとしていた。目的はどうあれ、やろうとしている事が、結果として世の中をより便利にすることや人を救うことにもつながりうる、つまりその企み自体は完全な悪とは言い難いというのは面白い点である。)

さてさて、これはフィクションの話であるが、現実にもスーパーヒーローと同じように、多くの人の憧れや妬みを受ける人々がいる。それは、スーパーヒーローと同じように才能などといった、全ての人に与えられるものではないものを必要とするものである。それは、クリエイターである。

クリエイター、特にそれで生計を立てるまでになるには何が必要か。まず最も必要とされるのはおそらく才能である。才能と言ってもセンスや忍耐などいろいろあるがそれについてゴタゴタ言うのは面倒なので割愛する。他には、金と時間と教育(これらは初期資本と呼べるだろう)、社会的責任を持つ必要がない状況、その他….などが必要であると思う。どれだけ求めてもなれない人にはなれないという点は、スーパーヒーローによく似ている。

つい最近まで創造は、クリエイターの特権であった。しかし現在、その特権は崩れつつあるように思う。かつて音楽を創造するのはプロのミュージシャンや、楽器や音楽教育のサービスを買うための大金、その他才能などを持つ人の特権であった。しかし現在は、プロのミュージシャンでなくても、楽器や音楽教育のサービスを買うお金などがなくとも、バーチャルな楽器や歌手を用いることによって音楽が創造できる。しかもその創造物を広く知ってもらい楽しんでもらうという、かつてはプロのミュージシャンにしか許されなかった事も、現在は可能である。音楽以外にも、造形(レゴブロック)、漫画(コミpo)、アニメーション(アドビフラッシュプレーヤー)、エンタテイメント(youtube)、絵(GIMP)、写真や動画(スマートフォンのカメラや編集アプリ)など(カッコ内でその創造を容易にしたツールで思いつくものを挙げてみた)、様々な方面で、創造が容易に、持つ者の特権ではなく多くの人が楽しめる物になりつつある。AIだのVRだのARだのの技術の発展などによって、今後この動きがますます加速するのはおそらく間違いないだろう。

このような動きによって、かつて創造することが許されなかった人々はアマチュアのクリエイターになることが可能になった(なりつつある)。またそれと同時に、アマチュアのクリエイターは、その創造物のクオリティを、それこそ一部ではプロに比べても遜色ないレベルまで大きく引き上げることが可能になった(なりつつ以下略)。みんながクリエイターになりつつあるのだ。才能、時間、お金、教育、その他に恵まれなかった人間にも、創造が、しかもかなり高いクオリティでできるようになりつつあるのだ。

みんながクリエイターになれば、クリエイターはもういらない。

このことが現実になりつつあるのではなかろうか。テレビで放送しているドラマやバラエティー番組と比べても遜色ほど面白い動画がyoutubeでyoutuberによって公開されていて、多くの人がテレビではなくyoutubeを見ることを選び、結果、芸能人やテレビ作家が失業する….ということがもしあれば、それは、バラエティーの”プロの”クリエイターはもういらない。ということである(個人的になんだかありそうだなと思った例を挙げてみたが、実際そんな事が起こっている証拠も、これから起こる根拠もない)。

さて、お金の奴隷解放宣言(笑)について、何かと批判があったらしい。その内容も多分いろいろあるだろう(批判の内容について詳しく知りたいとはとても思えない。無料というのは当然ながら商売の一手段であって、それを批判する意見というのはおそらくほとんど馬鹿馬鹿しいものだからである)。

(ちなみに、お金の奴隷解放宣言とタイトル付けられたポエムの出来は非常にグロデスクであり、金の亡者である私は一瞬思わず拒否反応を示してしまったので、同じような虫唾を感じた人には正直共感できてしまう。しかし同時にいい意味で驚かされもした。この異常なまでに気持ちの悪いポエムはその気持ち悪さ故に、単なる、ごまんとある芸人のブログの一記事でありながら絶大な宣伝効果を得ることに成功しており、金の亡者としてその点は非常に感心し、巧妙に仕掛けられたそのマーケティングには学ぶところがあると思った次第である)

おそらく、これら批判の中には、プロのクリエイターの保護を叫ぶものがあるだろうが、今回の題材はこれである。

プロのクリエイターの保護。これほど馬鹿馬鹿しい一文があるだろうか。保護されなければ生き残れないようなクリエイターは、もういらない。のである。ここまでつらつらと書き連ねた通り、クリエイトはもはやプロがする必要はないのだ。様々なツールの発展によって、多くの人がアマチュアのクリエイターになれて、そのアマチュアのクリエイターの創造物のクオリティは高い、もしくは高くなりつつあるのである。アマチュアでもクリエイトできるのだ。現に、キングコング西野さんという、お笑い芸人の方が、絵本作家のプロでないにもかかわらず、2000円というお金が取れるクオリティの絵本を作っているのである(キングコング西野さんが一人で作ったのではないという声が聞かれるが、西野さんは”おそらく”共著者と不当ではない契約を結び、報酬などの約束を果たしているのであろうこと、商売の一手段としての無料化を”おそらく”共著者と相談した上で決断したのであろうことから、それはどうでもいいことと思われる。申し訳ないがそのあたりを詳しく調べたいと思わない)。

そもそも無料で公開というのは商売の、マーケティングの一手段としてメジャー中のメジャーである。アニメ化もされた超有名な漫画、ワンパンマンも、ほとんど全話無料で読む事ができる。この前無料で読んだだいらんどはとても面白かった。それを、何を今さらガヤガヤと騒いでいるのだろう。ニュースを見ていてこんなしょうもない物が取り上げられているのに遭遇し、驚いてしまった。

クリエイターは、もういらない。

お金の奴隷解放宣言(笑)は、ネーミングこそ失敗(ある意味成功)しているが、時代の流れからして当然、西野さんがするべくしてした事である。これが今の時代であり、適応すべき環境である。クリエイターはもうプロもアマチュアもそこら中にわんさといるのである。この環境においてもプロとしてなお食べていけるような実力を持たない、「吹けば飛ぶような」、「プロの」(この二つは矛盾している)クリエイターはもういらない。無料で公開しているものに埋もれるような、その程度のクリエイトにインセンティブを与える必要などどこにもない。プロのクリエイターの保護はあまりに時代遅れで馬鹿馬鹿しい考え方である。

お金を稼ぐことが悪いと言うわけではない(むしろいいことだ)。ただ、創造の対価にお金がもらえるのが当然という考えが時代遅れで馬鹿馬鹿しいということ。そして、創造が価値を失うことを誰か、何かのせいにして批判すれば、もしくはその他何かしらの行動を起こせば、時代の流れに逆らって、創造を取り巻く環境を維持できる、今まで通り創造の価値が維持できると考える人がもしもいるならば、その考えは(私にとっては)失笑モノである(どんな環境においても自分の創造が価値を持てるように切磋琢磨することに対しては絶対に失笑しない。私が失笑するのは自分の創造に対しての働きかけでなく、外部環境への働きかけである)というのが、私の言いたいことである。

この環境においても、プロのクリエイターとして戦える猛者はそうすればいいのだ。そうでない人は、お金のためでなく、自己満足のために、創造する楽しさのために創造すればいいのだ。

みんなスーパーヒーローだから、スーパーヒーローなんてもういらない。

みんながクリエイターになれば、クリエイターはもういらない。

※以下蛇足

世の中にはプロのクリエイターになれなかった人、シンドロームと同じ境遇の人がクリエイターよりもたくさんいるはずだ。漫画家になれなかった人、ミュージシャンになれなかった人、役者になれなかった人、その他....彼らは才能が認められなかったのだろうか。何が足りなかったのだろうか。わからない。しかし彼らは今、シンドロームとなってクリエイターに復讐、下剋上することが可能だ。

シンドロームは強力な道具、ツールを作ることによってスーパーヒーローの能力を上回り、自らスーパーヒーローたりうる力を得た。それは、誰でもスーパーヒーローたりうる世界を作ることを意味した。それによって彼は、「特別」であったスーパーヒーローを特別、特権の座から引きずり落とすことによるスーパーヒーローへの復讐と、自分が持つ事ができなかった「スーパーヒーローの才能」の全否定を行おうとしていたのだ。復讐と否定、ネガティブで強力なエネルギーが彼を動かしたのだ。

世の中のクリエイターになれなかった人には、そんなネガティブなエネルギーはないのだろうか。シンドロームのように、自分がなれなかった漫画家、ミュージシャン、役者、その他に復讐し、自分に足りなかった何かを真っ向から否定してやりたいと思わないのだろうか。自分より才能があった。自分の親よりもそいつの親の方が金持ちだった。自分に足りない何かを持っていた。「たったそれだけ」で、「たったそれだけの理由」でやつらは、自分になれなかったクリエイターになり、したり顔で特権の創造活動をのうのうやって、金を得ている。シンドロームのように、そんなやつらに、復讐したくないのか。泡を吹かせたくないのか。自分と同じ地平に引きずり落としたくないのか。創造の特権階級をブッ壊してやりたいと思わないのか。ブッ壊して、自分も創造したいと思わないのか。

シンドロームはスーパーヒーローの才能と特権を否定するツールを作った。

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裁判長のいない裁判所 ~「プロの」メディアのあるべき姿~

言語訓練 随想

米国大統領トランプ氏は、今までメディア批判をしてきた世界中の政治家の中で、最も大きな権力を持つ事を許された政治家ではないだろうかと私は思う。トランプ氏が大統領になりえた理由はいくつかあるのだろうが、そのうちで最も注目しなければならない、深刻視しなければならないのが、トランプ氏の、既存のメディアを批判するという姿勢が、少なからずトランプ氏の米国大統領当選に影響したということである。これは、米国民の総意(50%以上)がメディアは信用できないということに賛成したということを意味している。これについてメディアはどうするつもりなのか。トランプ氏を批判するのはいいが、そのトランプ氏を当選させたのは、メディアの責任でもあるのである。それについてどう落とし前をつけるつもりなのか。まずそこについて国民に示さなければ、いくらトランプ氏を批判しようが、称賛しようが、それは国民の信用を持たず、心には届かない。

インターネットの普及などによって、不特定多数の匿名個人がつながりあい、広く情報を共有することができるようになった現在、人々にとって情報源はプロが制作するメディアだけではなくなった。それによって、プロのメディアが以前持っていた信用を失いつつあるという現象は、米国だけでなく、日本にも見られる。人々が、自分の耳に入ってくるものを鵜呑みにせずに疑うという姿勢を持ち始めているのは喜ばしい事といえるのだが、実際にはそうはうまくいっていない。今までの反動により、メディアを疑う気持ちがあまりに強くなったばかりに、逆にメディアを批判する、メディアとあべこべの事をいう情報を「鵜呑み」にしてしまっているのである。これはメディアの言うことを鵜呑みにするよりもタチが悪い。なぜなら、そのあべこべの事を言っているのは、何の実績も、何の信用も、何の責任も無いただの匿名個人だからである。

日本にそのようなことをしている愚か者がどれだけいるのかわからない。彼らは不特定多数で、匿名で、その上声が大きいからである。私の上げる声が何の意味をも持たない、つまり日本にそんな愚か者はほとんどいない事を願いつつ言いたいのは、情報を手放しに間違いと決めつける事は、鵜呑みにするのと同じくらい、いや、それ以上に愚かな行為である。これはあまりに至極当然のことである。私は匿名の人間が言っていることは信用できないと「決めつけて」いるのではない(もちろん大きなメディアよりも信用度が劣るとは思うが)。全ての情報に対して、正しいと決めつけもせず、間違っていると決めつけもせず、ただ中立に立ってどちらもを疑うべきであると言っているのだ(またもや至極当然)。

しかしながら、これはかなり骨の折れる作業である。時間もかかるしとにかく面倒だ。厄介なのが、その作業は面倒であると同時にとても重要な作業であるという点である。情報と情報の解釈は思想を形作るからだ。

これからのメディアに求められるのは(今までもだが)、この作業の代行である。これをきちんとできていなかったから、メディアは信用を失ったのだと私は思う。メディアがきちんと、ある物事に対して、複数の見方から、例えば刑事事件の裁判を行う検察と弁護士のように追及、弁護が行われていれば、特定のサイドに位置する記者の批判は起これど、裁判所そのものであるメディア批判は起こらないはずなのである。

メディアの批判が行われてしまう要因は、メディアが裁判所で言うところの裁判長の席に座ってしまっているからである。メディアのあるべき姿は裁判長ではない。メディアとは、被告人、証拠物件、検察と弁護士を包括的に全て用意した裁判所であるべきであって、判決を下す裁判長は「読者である国民」であるべきなのである。現在のメディアは、自分の役割を勘違いして、裁判長の席に座ってしまっているのではないだろうか。

メディアのあるべき姿は、上記のような、裁判長のいない裁判所であると私は思う。メディアがしなければならない仕事は二つである。まず一つ目、事実をありのままに、それこそロボットが行うように機械的に伝達すること。二つ目に、その情報を批判や擁護等、できるだけ多くの視点で評価、追及、弁護することである。特に二つ目は、複数の視点が全て単一のメディアに包括的に含まれるべきである。つまり、保守的な新聞、リベラル的な新聞といったような、複数のメディアで役割分担を行われるべきではない。両方の新聞を買って読むわけにもいかないからだ。

メディアの主役とも言えるのが、裁判所で言う検事と弁護士の役割を担うジャーナリスト、つまり上記の二つ目の役割を行うジャーナリストである。この種類のジャーナリストは持つ影響力が非常に大きいため、並大抵の人間がなってよいものではない。彼らは、特別な能力を持っているべきである。その能力とは、自分自身は何の思想も持たず、それと同時に、全ての視点からの思想を持ち合わせることができるという能力である。私が言いたいのは以下のようなことである。ただ単に、リベラル論者と保守論者に記事を書かせて、それを横に並べて掲載すればよいというわけではない。リベラルの視点から記事を書く記者、そして保守の視点から記事を書く記者は、対立する視点を理解し、共感する能力を持たなければならないということである。保守リベラルどちらの視点の記事を書かせても、立派にこなす記者でなくてはならないということである。なぜなら、様々な視点も理解するという事は、読者である国民に求められることであり、それを代行しつつ手助けするのがジャーナリスト、メディアの役割だからである。相互理解を先頭に立って推進するのは、ジャーナリストでなければならない。

何をどうすれば、メディアがこのように変われるのか私の小さい脳ではわからない。しかし、トランプ氏当選によってメディアへの不信感の大きさが露呈した今こそ、それは行われなくてはならない....のではないだろうか。

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