チンパンジー言語訓練ブログ

このブログは私(チンパンジー)の言語訓練に用いられます。@chimp_liuwusi

LINEバイトが愚鈍な忠犬群に投げ込む一石 ~雇用の流動化に必要な「空気」の改革~

(このブログは私、チンパンジーの言語訓練に用いられます)

 

LINEバイトのサービスが始まったのはいつだっただろうか。サービスが始まった当初の宣伝で、当時人気であった暗いロン毛のモデルが使われていたのを記憶している。

さて現在、ある新聞記事によると、LINEバイトの会員数が一千万人を超えたとあった。これが多いのか少ないのかは分からないが、少なくとも現在においてサービスが生き残っているということは評価すべき事実ではないかと思う。

 

タウンワークタウンワークしごーとしごと♪

アンアンアアンアン♪パミパミ♪

バイトするならバイトル

ロームエーイ♪

 

ここに食い込んできた、

 

ライーンバイト、ライーンバイト、ラインでバイトが見つかるたい♪

 

LINEでバイトが見つかる。このことについてもしかすると賛否があるのかもしれないが、私は熱烈に賛成する。このアイデアはとても素晴らしい。LINEとバイトをくっつけた人間は、間違いなく天才であると私は思う。これは神によって定められた運命の巡り合わせとすら思う。

LINEバイトは一体どのような影響を社会に及ぼすのか、何を期待して私はLINEバイトを熱烈に支持するのか。それがこの文章の主題である。

さて、LINEバイトについて語る前に、まず日本の雇用の環境、空気感、慣習のようなものについて語らねばならない。そして、ここから先少しは、終身雇用や雇用の流動性に関する話、つまり厚切りジェイソンという人間や、はたまたその他ベンチャー企業の創業者や外資系企業の幹部が常々言っていそうなことを語ることになる。おそらくもう聞き飽きた人間も多いと思われる。そのような方々は、※マークから※マークまで適当に飛ばしていただきたい。

現在の日本の雇用については問題があると思う。わざわざ言わなくとも、日本の競争力が近年低下していることから、それは自明なのであるが。正確に言えば、日本の雇用にはずっと問題があったのだが、近年その問題点がグローバル化という環境の変化によって、競争力低下という形で浮き彫りになってしまっている。

その問題点を簡単に言うならば、使用者と被用者の過剰な依存関係である。(再三言うがこれは厚切りジェイソンのような類の人間が何度も言っている事で、聞き飽きた人間は、※~※間を飛ばしていただきたい。また、今回はこの過剰な依存関係が醸成された背景やそのメリットについては調べていないため割愛し、デメリットのみを語る。)

現在の日本の雇用は終身雇用が主流である。これを簡単に言えば、有能も無能も一緒くたにしてずっと雇うのである。日本の法環境では、被用者を解雇するのが非常に難しい。これはいくつかの悪いことを引き起こす。

一つ目に、無能を解雇できずにずっと雇う必要があるため、その分の無駄なコストがかかり、業績が悪くなる。そしてその割を有能が喰わなければならない。会社に無能という足かせがぶら下がっているせいで、会社は本来得られたはずの成果を思うように得ることができないばかりか、結果得た利益をその足かせに吸われなければならないのだ。

二つ目に、有能も無能もずっと雇われ続け、その上有能の得た利益が無能に分配されるのであれば、有能な被用者は有能である必要性はなくなってしまい、有能は努力をやめ、次第に無能へと退化してしまう。また、無能も、有能でなくとも解雇されることはなく楽に有能の得た利益を分配してもらえるため、有能へと成長する必要が一切ない。結果会社に残るのは無能に成り下がりつつある有能と、無能であり続ける無能だけになってしまうのだ。つまり、被用者は永久に成長しない。むしろ退化する。これは会社自体が退化することを意味する。

三つ目に、解雇することなくずっと雇い続けるため、会社は中途で人員を採用する必要がなくなる。それは、転職市場が社会全体で小さくなるということにつながる。その結果、人材と企業の再マッチングが困難になる。人間には、向き不向きというのはどうしてもあるだろう。どれだけ頑張っても結果が出ない人もいれば、簡単に結果を出す人もいる。どれだけ頑張っても結果が出ないのであれば、その仕事は向いていないのであり、向いていないことをいつまでも頑張り続けるよりも、自分の新しい可能性、才能を探す方が自分にとっても社会にとっても利益になるに決まっている。しかし、転職市場が小さければ、自分の新しい可能性を探す事が困難になる。そもそも、たった一回の就職で自分の才能に合った仕事をぴったりと見つけることができるだろうか?また、終身雇用とセットの、被用者を結果ではなく勤続年数という謎の数字で評価する年功賃金や年功序列も、転職する気を減退させる一因となっている。再マッチングができないということは、眠れる才能をそのまま飼い腐らせることにつながり、明らかに社会にとって不利益である。

四つ目に、これも転職市場が小さいことによるものだが、被用者にとっての将来の選択肢が非常に狭まり、今の使用者に雇われ続けるしか選択肢が無いという状態に陥ってしまう。選択肢が一つしかないということは、被用者は、使用者がどんな条件を突きつけようが、断るという選択肢を選べなくなってしまう。どんな条件でどんな労働を強いられようと、被用者はのむしかない。つまり、奴隷へと成り下がるのだ。これは、このような状態にかまけて使用者側が成長しなくなるという事態も同時に引き起こす。

ざっとこんな感じだろうか。今まで終身雇用や簡単に解雇できないということが日本社会にどう作用していたかは知らない。が、今現在、そしてこれからは間違いなく悪く作用する。どこそこの会社が台湾の会社に買収された。どこそこの会社は中国や韓国の企業に一位の座を譲った。どこそこの会社は何かの事業を売却しアジアから撤退した。事実である。チンパンジーの大きなお世話だが、日本に住む人間は、認め、変わらなくてはならないのではと思う。

と、ここまでは主に正規雇用についての話であって、非正規雇用、つまりバイトの話ではない。一見LINEバイトとは関係の無い話であるが、そうではない。日本の正規雇用の慣習が作り出している空気感は、非正規雇用にも影響を与えているのだ。日本の被用者全体に影響を及ぼしていると言う方がいいだろうか。以上のような雇用環境によって、日本の被用者は、正規雇用にせよ、そして非正規雇用にせよ、ある大切な事実を忘れているのではないかと私は思う。

人間は、使用者と被用者にせよ、被用者同士(上司と部下)にせよ、人間として立場は対等である。確かに、業務上において、被用者は使用者の、部下は上司の命令を聞かなければならない。しかしそれは、使用者や上司が人間として立場が上だからであるとか、偉いからでは決してない。そのような契約をしているからというだけなのである。契約した当人同士や、同じような契約をした同僚同士は、その契約によってのみ上下関係が発生するのである。偉いとか人間として上とかはそこにはないのである。どうも日本の被用者(正規非正規を問わず)、そして使用者も、そこを忘れているのではないかと思わせるところがある。

この空気感、意識、感覚はおそらく雇用の流動性が低いことに起因するのであろうが、この空気感が雇用の流動性を低くしている原因になっている。日本の総理大臣は雇用の流動性を高めようと努力している(おそらく主に法律的な面からそれに取り組んでいると思われる)。しかし日本の雇用の流動性を高めたいのであれば、この空気感、この意識、雇い主と上司は人間として上で偉いという感覚を、被用者、また使用者全体から払拭することがかなり重要になるのではないかと私は思う。

LINEバイト。この救世主は、日本にはびこるこの悪しき感覚を払拭することができるかもしれないと私は期待する。LINEでバイトが見つかるのである。被用者と使用者がLINEでやりとりをするのである。それは、被用者と使用者の格式ばった上下関係という壁をかなり取り崩していると思う。この格式ばった上下関係を崩すことは、雇い主や上司が偉くて人間として上という感覚を崩すことに必ずつながるはずだ。

(私は、被用者候補が履歴書を書いたり出したりする際の様子がまるで神に何かを奉納するように見えて嫌悪感を覚える。ちなみに筆跡も評価の基準にするというのは納得できる話であるため、手書きを批判するわけではない。電話対応や、面接の際の過剰に細かいマナーの取り決めも、神の御前での立ち振る舞いが細かく取り決めてあるように見えて同様の嫌悪感を覚える)

私はチンパンジーであるため、これは推測でしかないのだが、日本の被用者は海外の人間から見ると、多くが愚鈍な忠犬に見えるのではないだろうか。忠誠心だけは一丁前に持って、主人が社会の荒波から守ってくれるため、一向に成長しないのである。

日本は衰退している。日本は成長しなければならない。LINEバイトが日本に、成長のために必要な新しい流れ、新しい風を吹き込んでくれることを私は期待する。と言っても、チンパンジーである私にはあまり関係の無い話ではあるのだが。

美容整形と生物 ~適応せざるを得ない環境~

人間界では、美容整形なるものが流行っているようだ。大辞林という辞書によると、美容整形とは、容貌や容姿を美しくするために、外科的処置・手術を行うことだそうだ。人間は自らの容姿を長期間にわたり変えることができるようになり、それが普及しているというのだから、驚きである。

この美容整形、比較的容姿に恵まれない、すなわち持つ遺伝子的に恵まれない個体にとっては大変便利なものである一方、容姿に恵まれる、すなわち持つ遺伝子的に優れている個体にとっては、非常にやっかいなものにちがいない。一つに、自分が交配相手を選ぶ際に頼りにしていた情報がモザイク化されてしまうことによる不便、もう一つが、自分が遺伝子的に持っていたアドバンテージがうやむやになってしまう不便である(一つ目が選ぶ際の不便だとすれば、もう一つは選ばれる際の不便と言える)。

人間の美醜の根拠ははっきりしていない。それは免疫だというのを聞いた事がある。昔の日本の美醜の感覚は現在とかなり違うらしいとも聞いた事がある。しかし今回はその根拠についてはおいておくこととして、ある事実のみを見たい。その事実とは、以下のものである。

人間の感覚で美しいということは、どうやら遺伝子的に優れているということらしい。つまり、根拠は不明だが、少なくとも顔面においては、ブサイクよりも美男美女の方が生物学的に優れているのである。実際人間界では、美男美女の方が多く子どもを残す傾向があるのがその根拠である。

つまり人間は、優れた個体を見つける手段のうちの一つを失うことになったのだ。これはよくない事なのだろうか、それともよいことだろうか。私はどちらでもないと考える。これは、ただ単に環境が変化したととらえられると私は考えるからである。実際問題として、人間は美容整形という道具を手に入れてしまったのだ。それを歓迎する人もいれば、嫌う人もいるが、それに関係なく、(たとえそれを法で禁止しようが隠れて)道具を使う人は使うのである。ならば、それはもはや環境が(容易に顔で遺伝子の優劣が見分けられる環境からそうでない環境へ)変わったというしかないのだ(化粧の発明によっても同じような環境の変化が起こったにちがいない)。

仮に素顔がブサイクの整形夫(もしくは嫁)をつかまされたとしても、生まれた子供もまた整形すれば、全てはうやむやである。もはや整形を見抜く能力があるとかないとかの話ではなくなる。こうなってしまうと、顔面を優れた個体を見つけるバロメーターにするのはもはや不可能である。その上、整形は顔面にはとどまらない。となると、外見から優れた個体か否かを判断するという、動物界でそれは長い長い間当然とされてきた常識、環境が、おそらく近いうちに崩れ去ってしまうのである(あるいはすでに崩れているかもしれないが)。もちろん、今までの生物の歴史でも、自分の外見について異性をだますという進化はあったにちがいない。しかし、この人間の例については、自分が持っている遺伝子に関わらずだれでもだます事ができるという点で、今までのだましと明らかに異なっている。つまり、遺伝子の進化によるだましではないのである。チンパンジーである私はこのことについて、正直嫌悪感を抱いているのだが、そんなことはお構いなしにきっと環境は変わるのだろう。

しかしこのようなとらえ方もできる。これはある種の進化ではなかろうかと。水から地上へはい出た太古の生物にとって、水中でどれだけ優位に活動できるかは、もはやどうでもよいこととなったに違いない。それと同じように、人間は、肉体的にどれだけ優位であるかはもはやどうでもよい方向へ進化したのかもしれない。太古の生物たちが水に縛られた世界から飛び出したように、人間は、肉体に縛られた世界から、さて、一体どこへいってしまうのだろうか。おそらくその議論は人間の間でさんざんされているだろう。いずれにせよ、チンパンジーには関係のない話である。

「憎たらしい」という言葉について ~「愛のある」罵倒、皮肉の難しさ~

「憎たらしい」は否定的な意味を持つ形容詞か?それとも好意的な意味だろうか。

私のそれなりに仲の良い友人に、「お前は憎たらしい奴だ」といった旨(もちろん「憎たらしい」という単語はそのまま用いている)の事を言ったのであるが、私の友人は、それを100%ネガティブなものととらえたようであった。そして、私はそれに驚いてしまった。

大辞林という辞書によると、この語は、いかにも憎らしいという意味らしい。

なるほど、友人がネガティブにとらえ、あるいは私が彼を傷つけてしまった可能性が存在するのは当然だ。ところで、今回問題にしたいのは、彼がネガティブにとらえた時に、私が驚いたということなのだ。

なぜ私は驚いたのか?それは、「憎たらしい」という単語を、通常ネガティブな意味で使わないという常識が私の中に根付いていたからである。

「憎たらしい」という単語は日常生活の中でどう使われているのだろうか?私の日常での話ではあるが、この語をネガティブな意味で日常会話で用いた記憶は、私にはない(おそらく少なくとも一度はそう用いたことがあるのだろうが、覚えていないという意味である)。

私の日常会話ではこの語はある程度仲のよい人物をからかう(この表現が正しい自信はない)時に用いる。もちろん、ネガティブな意味も多少は持ち合わせているのだが、その意味合いは少ない。しかし、どのような意味合いで多くを占められているのかと問われると、回答に困る。長い歴史を持つ日本語にはこれを表すのにぴったりな単語が存在するのかもしれないが。私の少ない語彙ではそれは思い当たらない。

仕方がないので、私にとって「憎たらしい」に多く含有されている意味Xを、同じく多く含有する(これはおそらく、この言葉を用いる人にとってはだれでもそう感じるはずである)言葉を紹介しようと思う。

「いけずやわぁ」

これは、私の思う意味Xを多く含有する言葉であると思う。同じく大辞林によると、いけずとは意地が悪い人やそのさま、もしくは、悪人、ならず者という意味らしい。「憎たらしい」と意味が近い。

「いけずやわぁ」とは主に関西で使われる言葉である。

今回、「憎たらしい」をめぐって私と友人の間に誤解が生じてしまった原因を私はこう予想する。

「憎たらしい」や、「いけず」などのネガティブな言葉を用いて、相手をからかったり、説明が困難な前述した意味Xを意図する文化は、関西にのみ根強く存在していて、関西以外ではこれら、またその他のネガティブな言葉をそのように使う文化はあまり根付いていないのではないか?

この仮説には一つ問題がある。というのは、その友人は関西出身なのである。しかし、彼は今、二年ほど関西から離れている。この二年で現地の方言にもかなり順応してきているようである。この二年が、彼に関西の語法を忘れさせてしまったのか?それとも同じ関西でも語法が、例えば身分によって異なっているのかもしれない。

いずれにせよ、この疑問の答えは簡単に出そうにもない。

※追記

そういえば、小憎たらしいという言葉もありますね。使ったことないですが。