チンパンジー言語訓練ブログ

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格差是正はなぜ必要か ~生物学的に見る「自己責任」の限界~

自然界の原則は、自然淘汰、適者生存、弱肉強食である。そしてもちろん、人間も例外ではない。人間とて所詮は生物である。これらの原則は、「自己責任」の名のもとで人間にも適用されるべきである…よって弱者、敗者の救済など必要ない、格差の是正など必要ない…一見、シンプルで説得力のある論に見える。しかし、実際の社会がそうでないことからわかるように、この論が正しいとは言い難い。それは一体なぜだろうか。

その理由は、ヒトという生物が社会的生物であるからである。ヒトは群れを成して生きる生物であり、群れを成さなければとても弱い生物であるからである。

例えば、あなたが大企業に勤めている優秀なヒトであったとしよう。あなたは命の安全がかなり確保されており、食料も難なく手に入れ、住居を持ち、配偶者を持っていて子供もいる。生物としてとても恵まれた状態にある。さて、ではなぜあなたはその状態を手に入れることができたのだろうか。あなたに才能があったから?あなたが努力したから?あなたの親が裕福だったから?それもある。しかし、最も大きな理由は、あなたが社会という群れの一員であるということである。

もしあなたから群れを取り去ったらどうなるだろう。あなたは誰にも頼らずに一人で自分の命の安全を確保できるだろうか。一人で食料を調達できるだろうか。一人で快適な住居を作る事ができるだろうか。不可能である。あなたが今これらを手に入れられているのは、優秀だからではない。何よりもまず、社会という群れに属しているからである。

つまり、ヒトが持つ、生き残るための力、能力は、大部分が社会という群れに由来するものであり、各個体に由来する能力というのは、群れに由来するものに比べ、ごくごく弱いものなのである。

話を戻そう。弱者、敗者の救済、つまり格差是正はなぜ必要か。それは、他の個体と助け合って群れを大きくする事が、自分の生き残るための能力の向上につながるからである。自分が生き残る格率を高める最も効率的で効果的な方法が、自分が属する群れを大きくする事であるから、格差是正が必要なのである。

社会主義共産主義はおそらくこの考えを忠実に実行したものだろう。しかし、ご存知の通り、社会主義は失敗した。

その原因はおそらく、先ほど「ごくごく弱いもの」と私が言った、各個体に由来する能力を、あまりにも軽視しすぎたからである。群れに由来する能力は絶対的なものであると、あまりに信仰しすぎていたのかもしれない。実際問題、どれだけ群れの構成員が増えようとも、その構成員が無能ばかりでは群れは弱いのである。ゼロにどれだけ大きな数をかけても答えはゼロだったのである。

つまり大切なのは、ヒトの能力には、「群れに由来する能力」、「各個体に由来する能力」の二つがある事を認識すること、そして、その二つともを軽視しないことである。要はバランスが肝心なのだ。

あなたの生存能力の大きさ=あなたの属する群れの強さ(規模×各構成員の能力)+その他

ヒトの、二つの能力を最大限に高める絶妙なバランスは一体どこにあるのだろうか。難しい問題である。

社会主義の失敗からも分かるように、格差は必要なものである。格差はヒトの闘争を促し、闘争はヒトの「各個体に由来する能力」を高める。格差がなければ、誰も闘争、努力しないため、「各個体に由来する能力」は落ちてしまう。問題はこの格差の大きさである。

「各個体に由来する能力」は闘争によって高められる。闘争は格差によって発生する。しかし、大きすぎる格差は、闘争を遠ざけてしまうのだ。格差があまりにも大きくなりすぎてしまうと、逆転不可能、つまり無理ゲー状態になってしまうのである。生まれた時の環境や、教育が余りに違っていたら?強い者がメディアを掌握し、弱者に入る情報をコントロールしていたら?そうなるともはや逆転不可能である。逆転不可能なゲームで闘争する者、努力する者はいない。そうなると、「各個体に由来する能力」は、当然ながら下がってしまう。

これは、同じ群れの一員である強い者にとっても、都合の悪いことである。前述の通り、群れの多数の個体の「各個体に由来する能力」が低下するという事は、その群れが弱体化するということにつながり、それは、群れの構成員全員の「群れに由来する能力」を下げることを意味する。

(会社の経営陣が、自分たちの権力を絶対的で犯しがたい逆転不可能なものにしたらどうなるだろう。昇進の望みがなくなった労働者たちは、努力することをやめてしまうだろう。その結果、会社自体が弱体化し、経営陣は困ることになる…といった具合である。)

つまり、格差を逆転可能な無理じゃないゲーに調整することが必要である。どの程度の格差が理想的なのかは私には分からないが、高所得者の子供がよい教育を受けやすい傾向にあったり、被用者は使用者に忠誠を誓う事が美しいとする風潮があったり、メディアがお金という力の影響を受ける構造であったり、「蛙の子は蛙」という、諦めムード漂う言葉がはびこる日本の格差の大きさが、適切なのだろうか。それは個人の考えなので私がとやかく言うべきではないだろう。

ともかく、なんでもかんでも自己責任自己責任と連呼する人々のほとんどは、ヒトの「群れに由来する能力」を軽視している、つまり、自分一人でなんでもできると勘違いしている人に見えてならない。

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証拠採用外の供述 No.xx

私は、子供をさらって殺すために、その朝、住宅街を歩き回っていました。小学校へ向かう小さな男の子を見つけました。周りを見て誰も見ていなかったのでこの子にしようと決めました。しかし、その子が私に向かって、「おはようございます」と大きな声で笑顔で挨拶したので、私はとても清々しい気分になって、「おはよう。いってらっしゃい」と笑顔で返してその子を見送りました。私は、その清々しい気分のまましばらく住宅街を歩いていましたが、ふと、誰か大人の視線を感じました。誰かはわかりませんでしたがその時、私は子供をさらうためにこの住宅街に来ていたのだと思い出しました。次に見つけた子供をさらって殺しました。

(フィクションです)

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クリエイターは、もういらない ~お金の奴隷解放宣言(笑)騒動について~

みんながスーパーヒーローになったら、スーパーヒーローはもういらない。

ディズニー映画、ミスターインクレディブルの悪役、シンドロームのセリフである。

子供のころはこのセリフの意味がイマイチ分からなかった。何のためにそんな事をするんだろう、金儲けのためかな、としか思っていなかった。現在になって、このセリフには彼のスーパーヒーローへの憧れや妬みなどといった感情が込められていると分かった。スーパーヒーローになりたい。しかし、自分はスーパーヒーローになれない。全ての人間をスーパーヒーローにすることによって、自分を拒絶したスーパーヒーロー、彼が持てなかったスーパーヒーローの「才能」、そしてスーパーヒーローに憧れていた過去の自分自身をも全て否定してやるというのが、おそらくこのセリフの意味だろう。

(彼は便利な、しかし兵器にもなりうる強力な、スーパーヒーロー以上の力を得ることができる道具、ツールを流通させることによって、世の全ての人間をヒーロー化させようとしていた。目的はどうあれ、やろうとしている事が、結果として世の中をより便利にすることや人を救うことにもつながりうる、つまりその企み自体は完全な悪とは言い難いというのは面白い点である。)

さてさて、これはフィクションの話であるが、現実にもスーパーヒーローと同じように、多くの人の憧れや妬みを受ける人々がいる。それは、スーパーヒーローと同じように才能などといった、全ての人に与えられるものではないものを必要とするものである。それは、クリエイターである。

クリエイター、特にそれで生計を立てるまでになるには何が必要か。まず最も必要とされるのはおそらく才能である。才能と言ってもセンスや忍耐などいろいろあるがそれについてゴタゴタ言うのは面倒なので割愛する。他には、金と時間と教育(これらは初期資本と呼べるだろう)、社会的責任を持つ必要がない状況、その他….などが必要であると思う。どれだけ求めてもなれない人にはなれないという点は、スーパーヒーローによく似ている。

つい最近まで創造は、クリエイターの特権であった。しかし現在、その特権は崩れつつあるように思う。かつて音楽を創造するのはプロのミュージシャンや、楽器や音楽教育のサービスを買うための大金、その他才能などを持つ人の特権であった。しかし現在は、プロのミュージシャンでなくても、楽器や音楽教育のサービスを買うお金などがなくとも、バーチャルな楽器や歌手を用いることによって音楽が創造できる。しかもその創造物を広く知ってもらい楽しんでもらうという、かつてはプロのミュージシャンにしか許されなかった事も、現在は可能である。音楽以外にも、造形(レゴブロック)、漫画(コミpo)、アニメーション(アドビフラッシュプレーヤー)、エンタテイメント(youtube)、絵(GIMP)、写真や動画(スマートフォンのカメラや編集アプリ)など(カッコ内でその創造を容易にしたツールで思いつくものを挙げてみた)、様々な方面で、創造が容易に、持つ者の特権ではなく多くの人が楽しめる物になりつつある。AIだのVRだのARだのの技術の発展などによって、今後この動きがますます加速するのはおそらく間違いないだろう。

このような動きによって、かつて創造することが許されなかった人々はアマチュアのクリエイターになることが可能になった(なりつつある)。またそれと同時に、アマチュアのクリエイターは、その創造物のクオリティを、それこそ一部ではプロに比べても遜色ないレベルまで大きく引き上げることが可能になった(なりつつ以下略)。みんながクリエイターになりつつあるのだ。才能、時間、お金、教育、その他に恵まれなかった人間にも、創造が、しかもかなり高いクオリティでできるようになりつつあるのだ。

みんながクリエイターになれば、クリエイターはもういらない。

このことが現実になりつつあるのではなかろうか。テレビで放送しているドラマやバラエティー番組と比べても遜色ほど面白い動画がyoutubeでyoutuberによって公開されていて、多くの人がテレビではなくyoutubeを見ることを選び、結果、芸能人やテレビ作家が失業する….ということがもしあれば、それは、バラエティーの”プロの”クリエイターはもういらない。ということである(個人的になんだかありそうだなと思った例を挙げてみたが、実際そんな事が起こっている証拠も、これから起こる根拠もない)。

さて、お金の奴隷解放宣言(笑)について、何かと批判があったらしい。その内容も多分いろいろあるだろう(批判の内容について詳しく知りたいとはとても思えない。無料というのは当然ながら商売の一手段であって、それを批判する意見というのはおそらくほとんど馬鹿馬鹿しいものだからである)。

(ちなみに、お金の奴隷解放宣言とタイトル付けられたポエムの出来は非常にグロデスクであり、金の亡者である私は一瞬思わず拒否反応を示してしまったので、同じような虫唾を感じた人には正直共感できてしまう。しかし同時にいい意味で驚かされもした。この異常なまでに気持ちの悪いポエムはその気持ち悪さ故に、単なる、ごまんとある芸人のブログの一記事でありながら絶大な宣伝効果を得ることに成功しており、金の亡者としてその点は非常に感心し、巧妙に仕掛けられたそのマーケティングには学ぶところがあると思った次第である)

おそらく、これら批判の中には、プロのクリエイターの保護を叫ぶものがあるだろうが、今回の題材はこれである。

プロのクリエイターの保護。これほど馬鹿馬鹿しい一文があるだろうか。保護されなければ生き残れないようなクリエイターは、もういらない。のである。ここまでつらつらと書き連ねた通り、クリエイトはもはやプロがする必要はないのだ。様々なツールの発展によって、多くの人がアマチュアのクリエイターになれて、そのアマチュアのクリエイターの創造物のクオリティは高い、もしくは高くなりつつあるのである。アマチュアでもクリエイトできるのだ。現に、キングコング西野さんという、お笑い芸人の方が、絵本作家のプロでないにもかかわらず、2000円というお金が取れるクオリティの絵本を作っているのである(キングコング西野さんが一人で作ったのではないという声が聞かれるが、西野さんは”おそらく”共著者と不当ではない契約を結び、報酬などの約束を果たしているのであろうこと、商売の一手段としての無料化を”おそらく”共著者と相談した上で決断したのであろうことから、それはどうでもいいことと思われる。申し訳ないがそのあたりを詳しく調べたいと思わない)。

そもそも無料で公開というのは商売の、マーケティングの一手段としてメジャー中のメジャーである。アニメ化もされた超有名な漫画、ワンパンマンも、ほとんど全話無料で読む事ができる。この前無料で読んだだいらんどはとても面白かった。それを、何を今さらガヤガヤと騒いでいるのだろう。ニュースを見ていてこんなしょうもない物が取り上げられているのに遭遇し、驚いてしまった。

クリエイターは、もういらない。

お金の奴隷解放宣言(笑)は、ネーミングこそ失敗(ある意味成功)しているが、時代の流れからして当然、西野さんがするべくしてした事である。これが今の時代であり、適応すべき環境である。クリエイターはもうプロもアマチュアもそこら中にわんさといるのである。この環境においてもプロとしてなお食べていけるような実力を持たない、「吹けば飛ぶような」、「プロの」(この二つは矛盾している)クリエイターはもういらない。無料で公開しているものに埋もれるような、その程度のクリエイトにインセンティブを与える必要などどこにもない。プロのクリエイターの保護はあまりに時代遅れで馬鹿馬鹿しい考え方である。

お金を稼ぐことが悪いと言うわけではない(むしろいいことだ)。ただ、創造の対価にお金がもらえるのが当然という考えが時代遅れで馬鹿馬鹿しいということ。そして、創造が価値を失うことを誰か、何かのせいにして批判すれば、もしくはその他何かしらの行動を起こせば、時代の流れに逆らって、創造を取り巻く環境を維持できる、今まで通り創造の価値が維持できると考える人がもしもいるならば、その考えは(私にとっては)失笑モノである(どんな環境においても自分の創造が価値を持てるように切磋琢磨することに対しては絶対に失笑しない。私が失笑するのは自分の創造に対しての働きかけでなく、外部環境への働きかけである)というのが、私の言いたいことである。

この環境においても、プロのクリエイターとして戦える猛者はそうすればいいのだ。そうでない人は、お金のためでなく、自己満足のために、創造する楽しさのために創造すればいいのだ。

みんなスーパーヒーローだから、スーパーヒーローなんてもういらない。

みんながクリエイターになれば、クリエイターはもういらない。

※以下蛇足

世の中にはプロのクリエイターになれなかった人、シンドロームと同じ境遇の人がクリエイターよりもたくさんいるはずだ。漫画家になれなかった人、ミュージシャンになれなかった人、役者になれなかった人、その他....彼らは才能が認められなかったのだろうか。何が足りなかったのだろうか。わからない。しかし彼らは今、シンドロームとなってクリエイターに復讐、下剋上することが可能だ。

シンドロームは強力な道具、ツールを作ることによってスーパーヒーローの能力を上回り、自らスーパーヒーローたりうる力を得た。それは、誰でもスーパーヒーローたりうる世界を作ることを意味した。それによって彼は、「特別」であったスーパーヒーローを特別、特権の座から引きずり落とすことによるスーパーヒーローへの復讐と、自分が持つ事ができなかった「スーパーヒーローの才能」の全否定を行おうとしていたのだ。復讐と否定、ネガティブで強力なエネルギーが彼を動かしたのだ。

世の中のクリエイターになれなかった人には、そんなネガティブなエネルギーはないのだろうか。シンドロームのように、自分がなれなかった漫画家、ミュージシャン、役者、その他に復讐し、自分に足りなかった何かを真っ向から否定してやりたいと思わないのだろうか。自分より才能があった。自分の親よりもそいつの親の方が金持ちだった。自分に足りない何かを持っていた。「たったそれだけ」で、「たったそれだけの理由」でやつらは、自分になれなかったクリエイターになり、したり顔で特権の創造活動をのうのうやって、金を得ている。シンドロームのように、そんなやつらに、復讐したくないのか。泡を吹かせたくないのか。自分と同じ地平に引きずり落としたくないのか。創造の特権階級をブッ壊してやりたいと思わないのか。ブッ壊して、自分も創造したいと思わないのか。

シンドロームはスーパーヒーローの才能と特権を否定するツールを作った。

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裁判長のいない裁判所 ~「プロの」メディアのあるべき姿~

米国大統領トランプ氏は、今までメディア批判をしてきた世界中の政治家の中で、最も大きな権力を持つ事を許された政治家ではないだろうかと私は思う。トランプ氏が大統領になりえた理由はいくつかあるのだろうが、そのうちで最も注目しなければならない、深刻視しなければならないのが、トランプ氏の、既存のメディアを批判するという姿勢が、少なからず、いやかなり大きくトランプ氏の米国大統領当選に影響したということである。これは、米国民の総意(50%以上)がメディアは信用できないということに賛成したということを暗に意味している。これについてメディアはどうするつもりなのか。トランプ氏を批判するのはいいが、そのトランプ氏を当選させたのは、メディアの責任でもあるのである。それについてどう落とし前をつけるつもりなのか。まずそこについて国民に示さなければ、いくらトランプ氏を批判しようが、称賛しようが、それは国民の信用を持たず、心には届かない。

インターネットの普及などによって、不特定多数の匿名個人がつながりあい、広く情報を共有することができるようになった現在、人々にとって情報源はプロが制作するマスメディアだけではなくなった。それによって、プロのマスメディアが以前持っていた信用を失いつつあるという現象は、米国だけでなく、日本にも見られる。人々が、自分の耳に入ってくるものを鵜呑みにせずに疑うという姿勢を持ち始めているのは喜ばしい事といえるのだが、実際にはそうはうまくいっていない。今までの反動により、メディアを疑う気持ちがあまりに強くなったばかりに、逆にメディアを批判する、メディアとあべこべの事をいう情報を「鵜呑み」にしてしまっているのである。これはメディアの言うことを鵜呑みにするよりもタチが悪い。なぜなら、そのあべこべの事を言っているのは、何の実績も、何の信用も、何の責任も無いただの匿名個人だからである。

日本にそのようなことをしている愚か者がどれだけいるのかわからない。彼らは不特定多数で、匿名で、その上声が大きいからである。私の上げる声が何の意味をも持たない、つまり日本にそんな愚か者はほとんどいない事を願いつつ言いたいのは、情報を手放しに間違いと決めつける事は、鵜呑みにするのと同じくらい、いや、それ以上に愚かな行為である。これはあまりに至極当然のことである。私は匿名の人間が言っていることは信用できないと「決めつけて」いるのではない(もちろん大きなメディアよりも信用度が劣るとは思うが)。全ての情報に対して、正しいと決めつけもせず、間違っていると決めつけもせず、ただ中立に立ってどちらもを疑うべきであると言っているのだ(またもや至極当然)。

しかしながら、これはかなり骨の折れる作業である。時間もかかるしとにかく面倒だ。厄介なのが、その作業は面倒であると同時にとても重要な作業であるという点である。情報と情報の解釈は思想を形作るからだ。

これからのメディアに求められるのは(今までもだが)、この作業の代行である。これをきちんとできていなかったから、メディアは信用を失ったのだと私は思う。メディアがきちんと、ある物事に対して、複数の見方から、例えば刑事事件の裁判を行う検察と弁護士のように追及、弁護が行われていれば、特定のサイドに位置する記者の批判は起これど、裁判所そのものであるメディア批判は起こらないはずなのである。

メディアの批判が行われてしまう要因は、メディアが裁判所で言うところの裁判長の席に座ってしまっているからである。メディアのあるべき姿は裁判長ではない。メディアとは、被告人、証拠物件、検察と弁護士を包括的に全て用意した裁判所であるべきであって、判決を下す裁判長は「読者である国民」であるべきなのである。現在のメディアは、自分の役割を勘違いして、裁判長の席に座ってしまっているのではないだろうか。

メディアのあるべき姿は、上記のような、裁判長のいない裁判所であると私は思う。メディアがしなければならない仕事は二つである。まず一つ目、事実をありのままに、それこそロボットが行うように機械的に伝達すること。二つ目に、その情報を批判や擁護等、できるだけ多くの視点で評価、追及、弁護することである。特に二つ目は、複数の視点が全て単一のメディアに包括的に含まれるべきである。つまり、保守的な新聞、リベラル的な新聞といったような、複数のメディアで役割分担を行われるべきではない。両方の新聞を買って読むわけにもいかないからだ。

メディアの主役とも言えるのが、裁判所で言う検事と弁護士の役割を担うジャーナリスト、つまり上記の二つ目の役割を行うジャーナリストである。この種類のジャーナリストは持つ影響力が非常に大きいため、並大抵の人間がなってよいものではない。彼らは、特別な能力を持っているべきである。その能力とは、自分自身は何の思想も持たず、それと同時に、全ての視点からの思想を持ち合わせることができるという能力である。私が言いたいのは以下のようなことである。ただ単に、リベラル論者と保守論者に記事を書かせて、それを横に並べて掲載すればよいというわけではない。リベラルの視点から記事を書く記者、そして保守の視点から記事を書く記者は、対立する視点を理解し、共感する能力を持たなければならないということである。保守リベラルどちらの視点の記事を書かせても、立派にこなす記者でなくてはならないということである。なぜなら、様々な視点も理解するという事は、読者である国民に求められることであり、それを代行しつつ手助けするのがジャーナリスト、メディアの役割だからである。相互理解を先頭に立って推進するのは、ジャーナリストでなければならない。

何をどうすれば、メディアがこのように変われるのか私の小さい脳ではわからない。しかし、トランプ氏当選によってメディアへの不信感の大きさが露呈した今こそ、それは行われなくてはならない....のではないだろうか。

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C2CからC/C2C/Cへ ~クリエイターズムーブメント~

C2C(consumer to consumer)からC/C2C/C(creator/consumer to consumer/creator)へ

民泊やメルカリのように、消費者(consumer)と消費者で財を取引するc2cの発展は近年目覚ましい。その市場規模は日本で何兆円だったかを超えているとされるという新聞記事も読んだ。スマートフォンの普及などの理由で急速に発展するc2cだが、そのc(consumer)が持ちつつある一つの面に注目しなければならないと私は思う。c(consumer)のcreator化である。

消費者は、ただの消費者であることをやめようとしている、やめられる時代が近いと私は思う。その良い例は、kindle ダイレクトパブリッシングや、ミンネである(メルカリでもミンネのようにハンドメイドを売る動きがある)。スマートフォンが普及する以前から、消費者のクリエイター化はインターネットの普及によって進められてきた(例を挙げればキリがないが、インターネット上で合法に利用できるコンテンツのほとんどは、消費者がクリエイターとなって作られたものではないだろうか)。しかしそれは、無料のコンテンツ内での事が多かった。しかしながら近年、そこにお金が絡む流れが大きくなっているように思う。消費者と消費者が無料でコンテンツを互いに創作して楽しむのであれば、それは流通とは(多分)呼ばないだろうが、そこにお金の取引が発生するのであれば、それは立派な流通である。

youtuberもいい例である。今まで趣味で投稿していた動画がお金を生むようになっている。お金を得られているという時点で、彼らは立派なクリエイターなのであり、素人ではなく消費者を兼ねたプロなのである。お金を得られているということは、実際的に彼らはテレビに出る芸人と区別ができないのである。異なる部分は、テレビに出る芸人は、テレビ局やテレビ制作会社を消費者との間に挟んでいるが、youtuberはそれらを挟まずに、かなり直接的に消費者へエンタテイメントのサービスを届けているという点である。テレビの人気が下がり、代わりにyoutuberの挙げた動画が人気を得ているのだとすれば、それはエンタテイメントのc(creator/consumer)2c化が進んでいると言えると私は思う。

今まで無料で互いに楽しみ合うだけであった消費者の創作に、お金の取引が絡むようにまでなった原因は一体なんだろうか。まず一つは、c(consumer)2cの普及、二つ目に普及によって決算が簡単かつ容易になったというところがあるのではないかと思う。そして三つめは、人間の創作活動の手助けをするツールの発展が進み、ついには趣味で創作したもののクオリティがお金と交換できるレベルにまで上がってしまったというのがある(もしくはそうなる)と思う(この要因によって創作者が増えている側面も大きいのではないだろうか)。

三つめは、特にこれから大きくなっていくと私は思う。人間の創作を手助けするツールの発展は、これから勢いを持つ分野ではないかと思う。AIの実用化や、3Dプリンターの普及などは、間違いなく消費者のクリエイター化を促すはずだ。そうなれば、消費者の総クリエイターも近いのではないだろうか。C/C2C/Cの後ろのC/Cはそういった総クリエイター化の意味である。

しかし、C/C2C/Cの流れは、長くは続かないと私は思う。正確に言えば、お金の取引を伴うC/C2C/Cは拡大し続けるとは思えない。と、言うのも、お金を払わなければ手に入らないものが現在急速に減っているのである。例えば同人誌。コミックマーケットで大規模な市場が開かれているが、そのデータは残念なことに買わなくとも簡単に手に入ってしまう。小説、漫画、映画、テレビ番組、音楽、アニメ、ゲームソフトですらそうである。データにできる物はほとんどなんでも無料で手に入ってしまうのが今の世である。3Dプリンターの登場で、立体物すら例外ではない。そのうち電子機器の設計データから電子機器を作る3Dプリンターも登場するかもしれない。もちろん、これは違法なのだが、実際問題としてこれが現状であり、環境といってもいいと思う。環境というのはつまり、その状態を改善するよりも、その状態に適応した方が(コストなどの面で)よいのではないだろうかという意味である。

C/C、消費者兼クリエイターが作ったものに関わらず、データにできる物を売るというのは厳しくなっていくと思う。それを防ごうにも、防ぐのにコストがかかりすぎてしまえば、創造物は高価になってしまい、無料で公開されているものへ流出するだけではないだろうか。そもそも、現在ですらまともに防げていないのにこれから防げるようになるのか。

お金の取引を伴うC/C2C/Cの流れは、これから熱くなっていくだろうが、しばらく後、データにできない財を除いて、また今までのようなお金の取引を伴わない物へ戻っていくだろう。ただし、クオリティが大きく上がった状態で、そして、今まで有料であった同種のコンテンツを道連れにして….である。

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習慣と握力

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※男子のデータ、横軸は歳、縦軸はキログラム

 

体力というものは習慣に大きく影響を受けるというのは言うまでもない。何気なしに続けていた習慣が、気づかぬ間に自分の体力に大きく影響を及ぼしているということは、よくあるのではないかと私は思う。

私は今回その例と思われる物を一つ持ってきた。上のグラフは、年齢で見る握力の推移である。オレンジの折れ線(第二軸)は前年比でどれだけ変化したかを表す。

これによると、12歳から15歳までの間の、握力の成長が著しい。もちろん、体が大きくなって体力がついてくるという理由も大きいと思うのだが、この著しい成長の理由は他にもあると私は考える。

私が考える他の成長の理由こそ、習慣である。男子が12歳から15歳までの間に始める、握力を強化することにつながる習慣....答えは伏せておくが、男性なら察しがついただろう。

 

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LINEバイトが愚鈍な忠犬群に投げ込む一石 ~雇用の流動化に必要な「空気」の改革~

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LINEバイトのサービスが始まったのはいつだっただろうか。サービスが始まった当初の宣伝で、当時人気であった暗いロン毛のモデルが使われていたのを記憶している。

さて現在、ある新聞記事によると、LINEバイトの会員数が一千万人を超えたとあった。これが多いのか少ないのかは分からないが、少なくとも現在においてサービスが生き残っているということは評価すべき事実ではないかと思う。

 

タウンワークタウンワークしごーとしごと♪

アンアンアアンアン♪パミパミ♪

バイトするならバイトル

ロームエーイ♪

 

ここに食い込んできた、

 

ライーンバイト、ライーンバイト、ラインでバイトが見つかるたい♪

 

LINEでバイトが見つかる。このことについてもしかすると賛否があるのかもしれないが、私は熱烈に賛成する。このアイデアはとても素晴らしい。LINEとバイトをくっつけた人間は、間違いなく天才であると私は思う。これは神によって定められた運命の巡り合わせとすら思う。

LINEバイトは一体どのような影響を社会に及ぼすのか、何を期待して私はLINEバイトを熱烈に支持するのか。それがこの文章の主題である。

さて、LINEバイトについて語る前に、まず日本の雇用の環境、空気感、慣習のようなものについて語らねばならない。そして、ここから先少しは、終身雇用や雇用の流動性に関する話、つまり厚切りジェイソンという人間や、はたまたその他ベンチャー企業の創業者や外資系企業の幹部が常々言っていそうなことを語ることになる。おそらくもう聞き飽きた人間も多いと思われる。そのような方々は、※マークから※マークまで適当に飛ばしていただきたい。

現在の日本の雇用については問題があると思う。わざわざ言わなくとも、日本の競争力が近年低下していることから、それは自明なのであるが。正確に言えば、日本の雇用にはずっと問題があったのだが、近年その問題点がグローバル化という環境の変化によって、競争力低下という形で浮き彫りになってしまっている。

その問題点を簡単に言うならば、使用者と被用者の過剰な依存関係である。(再三言うがこれは厚切りジェイソンのような類の人間が何度も言っている事で、聞き飽きた人間は、※~※間を飛ばしていただきたい。また、今回はこの過剰な依存関係が醸成された背景やそのメリットについては調べていないため割愛し、デメリットのみを語る。)

現在の日本の雇用は終身雇用が主流である。これを簡単に言えば、有能も無能も一緒くたにしてずっと雇うのである。日本の法環境では、被用者を解雇するのが非常に難しい。これはいくつかの悪いことを引き起こす。

一つ目に、無能を解雇できずにずっと雇う必要があるため、その分の無駄なコストがかかり、業績が悪くなる。そしてその割を有能が喰わなければならない。会社に無能という足かせがぶら下がっているせいで、会社は本来得られたはずの成果を思うように得ることができないばかりか、結果得た利益をその足かせに吸われなければならないのだ。

二つ目に、有能も無能もずっと雇われ続け、その上有能の得た利益が無能に分配されるのであれば、有能な被用者は有能である必要性はなくなってしまい、有能は努力をやめ、次第に無能へと退化してしまう。また、無能も、有能でなくとも解雇されることはなく楽に有能の得た利益を分配してもらえるため、有能へと成長する必要が一切ない。結果会社に残るのは無能に成り下がりつつある有能と、無能であり続ける無能だけになってしまうのだ。つまり、被用者は永久に成長しない。むしろ退化する。これは会社自体が退化することを意味する。

三つ目に、解雇することなくずっと雇い続けるため、会社は中途で人員を採用する必要がなくなる。それは、転職市場が社会全体で小さくなるということにつながる。その結果、人材と企業の再マッチングが困難になる。人間には、向き不向きというのはどうしてもあるだろう。どれだけ頑張っても結果が出ない人もいれば、簡単に結果を出す人もいる。どれだけ頑張っても結果が出ないのであれば、その仕事は向いていないのであり、向いていないことをいつまでも頑張り続けるよりも、自分の新しい可能性、才能を探す方が自分にとっても社会にとっても利益になるに決まっている。しかし、転職市場が小さければ、自分の新しい可能性を探す事が困難になる。そもそも、たった一回の就職で自分の才能に合った仕事をぴったりと見つけることができるだろうか?また、終身雇用とセットの、被用者を結果ではなく勤続年数という謎の数字で評価する年功賃金や年功序列も、転職する気を減退させる一因となっている。再マッチングができないということは、眠れる才能をそのまま飼い腐らせることにつながり、明らかに社会にとって不利益である。

四つ目に、これも転職市場が小さいことによるものだが、被用者にとっての将来の選択肢が非常に狭まり、今の使用者に雇われ続けるしか選択肢が無いという状態に陥ってしまう。選択肢が一つしかないということは、被用者は、使用者がどんな条件を突きつけようが、断るという選択肢を選べなくなってしまう。どんな条件でどんな労働を強いられようと、被用者はのむしかない。つまり、奴隷へと成り下がるのだ。これは、このような状態にかまけて使用者側が成長しなくなるという事態も同時に引き起こす。

ざっとこんな感じだろうか。今まで終身雇用や簡単に解雇できないということが日本社会にどう作用していたかは知らない。が、今現在、そしてこれからは間違いなく悪く作用する。どこそこの会社が台湾の会社に買収された。どこそこの会社は中国や韓国の企業に一位の座を譲った。どこそこの会社は何かの事業を売却しアジアから撤退した。事実である。チンパンジーの大きなお世話だが、日本に住む人間は、認め、変わらなくてはならないのではと思う。

と、ここまでは主に正規雇用についての話であって、非正規雇用、つまりバイトの話ではない。一見LINEバイトとは関係の無い話であるが、そうではない。日本の正規雇用の慣習が作り出している空気感は、非正規雇用にも影響を与えているのだ。日本の被用者全体に影響を及ぼしていると言う方がいいだろうか。以上のような雇用環境によって、日本の被用者は、正規雇用にせよ、そして非正規雇用にせよ、ある大切な事実を忘れているのではないかと私は思う。

人間は、使用者と被用者にせよ、被用者同士(上司と部下)にせよ、人間として立場は対等である。確かに、業務上において、被用者は使用者の、部下は上司の命令を聞かなければならない。しかしそれは、使用者や上司が人間として立場が上だからであるとか、偉いからでは決してない。そのような契約をしているからというだけなのである。契約した当人同士や、同じような契約をした同僚同士は、その契約によってのみ上下関係が発生するのである。偉いとか人間として上とかはそこにはないのである。どうも日本の被用者(正規非正規を問わず)、そして使用者も、そこを忘れているのではないかと思わせるところがある。

この空気感、意識、感覚はおそらく雇用の流動性が低いことに起因するのであろうが、この空気感が雇用の流動性を低くしている原因になっている。日本の総理大臣は雇用の流動性を高めようと努力している(おそらく主に法律的な面からそれに取り組んでいると思われる)。しかし日本の雇用の流動性を高めたいのであれば、この空気感、この意識、雇い主と上司は人間として上で偉いという感覚を、被用者、また使用者全体から払拭することがかなり重要になるのではないかと私は思う。

LINEバイト。この救世主は、日本にはびこるこの悪しき感覚を払拭することができるかもしれないと私は期待する。LINEでバイトが見つかるのである。被用者と使用者がLINEでやりとりをするのである。それは、被用者と使用者の格式ばった上下関係という壁をかなり取り崩していると思う。この格式ばった上下関係を崩すことは、雇い主や上司が偉くて人間として上という感覚を崩すことに必ずつながるはずだ。

(私は、被用者候補が履歴書を書いたり出したりする際の様子がまるで神に何かを奉納するように見えて嫌悪感を覚える。ちなみに筆跡も評価の基準にするというのは納得できる話であるため、手書きを批判するわけではない。電話対応や、面接の際の過剰に細かいマナーの取り決めも、神の御前での立ち振る舞いが細かく取り決めてあるように見えて同様の嫌悪感を覚える)

私はチンパンジーであるため、これは推測でしかないのだが、日本の被用者は海外の人間から見ると、多くが愚鈍な忠犬に見えるのではないだろうか。忠誠心だけは一丁前に持って、主人が社会の荒波から守ってくれるため、一向に成長しないのである。

日本は衰退している。日本は成長しなければならない。LINEバイトが日本に、成長のために必要な新しい流れ、新しい風を吹き込んでくれることを私は期待する。と言っても、チンパンジーである私にはあまり関係の無い話ではあるのだが。