チンパンジー言語訓練ブログ

このブログは私(チンパンジー)の言語訓練に用いられます。@chimp_liuwusi

裁判長のいない裁判所 ~「プロの」メディアのあるべき姿~

米国大統領トランプ氏は、今までメディア批判をしてきた世界中の政治家の中で、最も大きな権力を持つ事を許された政治家ではないだろうかと私は思う。トランプ氏が大統領になりえた理由はいくつかあるのだろうが、そのうちで最も注目しなければならない、深刻視しなければならないのが、トランプ氏の、既存のメディアを批判するという姿勢が、少なからず、いやかなり大きくトランプ氏の米国大統領当選に影響したということである。これは、米国民の総意(50%以上)がメディアは信用できないということに賛成したということを暗に意味している。これについてメディアはどうするつもりなのか。トランプ氏を批判するのはいいが、そのトランプ氏を当選させたのは、メディアの責任でもあるのである。それについてどう落とし前をつけるつもりなのか。まずそこについて国民に示さなければ、いくらトランプ氏を批判しようが、称賛しようが、それは国民の信用を持たず、心には届かない。

インターネットの普及などによって、不特定多数の匿名個人がつながりあい、広く情報を共有することができるようになった現在、人々にとって情報源はプロが制作するマスメディアだけではなくなった。それによって、プロのマスメディアが以前持っていた信用を失いつつあるという現象は、米国だけでなく、日本にも見られる。人々が、自分の耳に入ってくるものを鵜呑みにせずに疑うという姿勢を持ち始めているのは喜ばしい事といえるのだが、実際にはそうはうまくいっていない。今までの反動により、メディアを疑う気持ちがあまりに強くなったばかりに、逆にメディアを批判する、メディアとあべこべの事をいう情報を「鵜呑み」にしてしまっているのである。これはメディアの言うことを鵜呑みにするよりもタチが悪い。なぜなら、そのあべこべの事を言っているのは、何の実績も、何の信用も、何の責任も無いただの匿名個人だからである。

日本にそのようなことをしている愚か者がどれだけいるのかわからない。彼らは不特定多数で、匿名で、その上声が大きいからである。私の上げる声が何の意味をも持たない、つまり日本にそんな愚か者はほとんどいない事を願いつつ言いたいのは、情報を手放しに間違いと決めつける事は、鵜呑みにするのと同じくらい、いや、それ以上に愚かな行為である。これはあまりに至極当然のことである。私は匿名の人間が言っていることは信用できないと「決めつけて」いるのではない(もちろん大きなメディアよりも信用度が劣るとは思うが)。全ての情報に対して、正しいと決めつけもせず、間違っていると決めつけもせず、ただ中立に立ってどちらもを疑うべきであると言っているのだ(またもや至極当然)。

しかしながら、これはかなり骨の折れる作業である。時間もかかるしとにかく面倒だ。厄介なのが、その作業は面倒であると同時にとても重要な作業であるという点である。情報と情報の解釈は思想を形作るからだ。

これからのメディアに求められるのは(今までもだが)、この作業の代行である。これをきちんとできていなかったから、メディアは信用を失ったのだと私は思う。メディアがきちんと、ある物事に対して、複数の見方から、例えば刑事事件の裁判を行う検察と弁護士のように追及、弁護が行われていれば、特定のサイドに位置する記者の批判は起これど、裁判所そのものであるメディア批判は起こらないはずなのである。

メディアの批判が行われてしまう要因は、メディアが裁判所で言うところの裁判長の席に座ってしまっているからである。メディアのあるべき姿は裁判長ではない。メディアとは、被告人、証拠物件、検察と弁護士を包括的に全て用意した裁判所であるべきであって、判決を下す裁判長は「読者である国民」であるべきなのである。現在のメディアは、自分の役割を勘違いして、裁判長の席に座ってしまっているのではないだろうか。

メディアのあるべき姿は、上記のような、裁判長のいない裁判所であると私は思う。メディアがしなければならない仕事は二つである。まず一つ目、事実をありのままに、それこそロボットが行うように機械的に伝達すること。二つ目に、その情報を批判や擁護等、できるだけ多くの視点で評価、追及、弁護することである。特に二つ目は、複数の視点が全て単一のメディアに包括的に含まれるべきである。つまり、保守的な新聞、リベラル的な新聞といったような、複数のメディアで役割分担を行われるべきではない。両方の新聞を買って読むわけにもいかないからだ。

メディアの主役とも言えるのが、裁判所で言う検事と弁護士の役割を担うジャーナリスト、つまり上記の二つ目の役割を行うジャーナリストである。この種類のジャーナリストは持つ影響力が非常に大きいため、並大抵の人間がなってよいものではない。彼らは、特別な能力を持っているべきである。その能力とは、自分自身は何の思想も持たず、それと同時に、全ての視点からの思想を持ち合わせることができるという能力である。私が言いたいのは以下のようなことである。ただ単に、リベラル論者と保守論者に記事を書かせて、それを横に並べて掲載すればよいというわけではない。リベラルの視点から記事を書く記者、そして保守の視点から記事を書く記者は、対立する視点を理解し、共感する能力を持たなければならないということである。保守リベラルどちらの視点の記事を書かせても、立派にこなす記者でなくてはならないということである。なぜなら、様々な視点も理解するという事は、読者である国民に求められることであり、それを代行しつつ手助けするのがジャーナリスト、メディアの役割だからである。相互理解を先頭に立って推進するのは、ジャーナリストでなければならない。

何をどうすれば、メディアがこのように変われるのか私の小さい脳ではわからない。しかし、トランプ氏当選によってメディアへの不信感の大きさが露呈した今こそ、それは行われなくてはならない....のではないだろうか。

(このブログは私の言語訓練に用いられます)