チンパンジー言語訓練ブログ

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格差是正はなぜ必要か ~生物学的に見る「自己責任」の限界~

自然界の原則は、自然淘汰、適者生存、弱肉強食である。そしてもちろん、人間も例外ではない。人間とて所詮は生物である。これらの原則は、「自己責任」の名のもとで人間にも適用されるべきである…よって弱者、敗者の救済など必要ない、格差の是正など必要ない…一見、シンプルで説得力のある論に見える。しかし、実際の社会がそうでないことからわかるように、この論が正しいとは言い難い。それは一体なぜだろうか。

その理由は、ヒトという生物が社会的生物であるからである。ヒトは群れを成して生きる生物であり、群れを成さなければとても弱い生物であるからである。

例えば、あなたが大企業に勤めている優秀なヒトであったとしよう。あなたは命の安全がかなり確保されており、食料も難なく手に入れ、住居を持ち、配偶者を持っていて子供もいる。生物としてとても恵まれた状態にある。さて、ではなぜあなたはその状態を手に入れることができたのだろうか。あなたに才能があったから?あなたが努力したから?あなたの親が裕福だったから?それもある。しかし、最も大きな理由は、あなたが社会という群れの一員であるということである。

もしあなたから群れを取り去ったらどうなるだろう。あなたは誰にも頼らずに一人で自分の命の安全を確保できるだろうか。一人で食料を調達できるだろうか。一人で快適な住居を作る事ができるだろうか。不可能である。あなたが今これらを手に入れられているのは、優秀だからではない。何よりもまず、社会という群れに属しているからである。

つまり、ヒトが持つ、生き残るための力、能力は、大部分が社会という群れに由来するものであり、各個体に由来する能力というのは、群れに由来するものに比べ、ごくごく弱いものなのである。

話を戻そう。弱者、敗者の救済、つまり格差是正はなぜ必要か。それは、他の個体と助け合って群れを大きくする事が、自分の生き残るための能力の向上につながるからである。自分が生き残る格率を高める最も効率的で効果的な方法が、自分が属する群れを大きくする事であるから、格差是正が必要なのである。

社会主義共産主義はおそらくこの考えを忠実に実行したものだろう。しかし、ご存知の通り、社会主義は失敗した。

その原因はおそらく、先ほど「ごくごく弱いもの」と私が言った、各個体に由来する能力を、あまりにも軽視しすぎたからである。群れに由来する能力は絶対的なものであると、あまりに信仰しすぎていたのかもしれない。実際問題、どれだけ群れの構成員が増えようとも、その構成員が無能ばかりでは群れは弱いのである。ゼロにどれだけ大きな数をかけても答えはゼロだったのである。

つまり大切なのは、ヒトの能力には、「群れに由来する能力」、「各個体に由来する能力」の二つがある事を認識すること、そして、その二つともを軽視しないことである。要はバランスが肝心なのだ。

あなたの生存能力の大きさ=あなたの属する群れの強さ(規模×各構成員の能力)+その他

ヒトの、二つの能力を最大限に高める絶妙なバランスは一体どこにあるのだろうか。難しい問題である。

社会主義の失敗からも分かるように、格差は必要なものである。格差はヒトの闘争を促し、闘争はヒトの「各個体に由来する能力」を高める。格差がなければ、誰も闘争、努力しないため、「各個体に由来する能力」は落ちてしまう。問題はこの格差の大きさである。

「各個体に由来する能力」は闘争によって高められる。闘争は格差によって発生する。しかし、大きすぎる格差は、闘争を遠ざけてしまうのだ。格差があまりにも大きくなりすぎてしまうと、逆転不可能、つまり無理ゲー状態になってしまうのである。生まれた時の環境や、教育が余りに違っていたら?強い者がメディアを掌握し、弱者に入る情報をコントロールしていたら?そうなるともはや逆転不可能である。逆転不可能なゲームで闘争する者、努力する者はいない。そうなると、「各個体に由来する能力」は、当然ながら下がってしまう。

これは、同じ群れの一員である強い者にとっても、都合の悪いことである。前述の通り、群れの多数の個体の「各個体に由来する能力」が低下するという事は、その群れが弱体化するということにつながり、それは、群れの構成員全員の「群れに由来する能力」を下げることを意味する。

(会社の経営陣が、自分たちの権力を絶対的で犯しがたい逆転不可能なものにしたらどうなるだろう。昇進の望みがなくなった労働者たちは、努力することをやめてしまうだろう。その結果、会社自体が弱体化し、経営陣は困ることになる…といった具合である。)

つまり、格差を逆転可能な無理じゃないゲーに調整することが必要である。どの程度の格差が理想的なのかは私には分からないが、高所得者の子供がよい教育を受けやすい傾向にあったり、被用者は使用者に忠誠を誓う事が美しいとする風潮があったり、メディアがお金という力の影響を受ける構造であったり、「蛙の子は蛙」という、諦めムード漂う言葉がはびこる日本の格差の大きさが、適切なのだろうか。それは個人の考えなので私がとやかく言うべきではないだろう。

ともかく、なんでもかんでも自己責任自己責任と連呼する人々のほとんどは、ヒトの「群れに由来する能力」を軽視している、つまり、自分一人でなんでもできると勘違いしている人に見えてならない。

(このブログは私の言語訓練に用いられます)