チンパンジー言語訓練ブログ

ぜひ目次を見て下さい(一番上の記事です)。twitter:@chimp_liuwusi

吐き気をもよおす文章

最近、京都大学で先生をしているF氏が書いた学術書の、冒頭にある「はしがき」を読む機会があった。ちなみに、私は京都大学とは何の関係もない。そういった本のはしがきを読むということが今までなかったもので、初めての経験だったのであるが、私はそのはしがきにとても驚いてしまった。

吐き気をもよおし、胸やけを起こさせるほど、本当に気持ちの悪い文章だったのだ。

思い出すのも嫌になるような文章なのだが、頑張って思い出して大まかな内容を説明すると、

「私はたくさんの有名な教授に教えを受けており、その上いろんな著名人と知り合いである。」

「私の家は金持ちで、父の友人は会社の社長である。」

というような事が、自信に満ちた気色の悪い謙遜と、読みにくい太宰治風の表現を交えつつ、数ページ延々と書かれているはしがきだった。

天下の京都大学で先生をしている人が書いたとは思えないほど、あまりに、あまりに品に欠けたはしがきだと思った。しかしもしかしたら、学術書のはしがきというのはこういうものなのかもしれない。もしこういうはしがきがスタンダードなのだとすれば、私から見た学問は、いい年したおっさんの自慢大会である。

京都大学で大学院に行く方など、学問を深める方は、このような文章を書く気色悪い人間と渡り合っていかなければならないのだろうか。私は実際京都大学で教えを受けたこともなく、この先生が特殊なのかどうかは分からないのだが、もしこのような先生ばかりなのであれば、大学院生は本当にかわいそうだなと思う。少なくともこのF氏のもとで学ぶ学生は、ものすごくかわいそうだ。

しかし同時に、目の覚める思いでもあった。文章は、ここまで人を不快にさせることができるのか。ならば、今まで自分が書いてきた文章はどうだったのだろう。人を不快にさせてはこなかったのだろうか。特に、書いた内容ではなく、「書く姿勢」で人を不快にさせてこなかっただろうか。

そう考えた時に、私は胸を張って違うとは自分に言えなかった。今までの人生、そこそこの分量の文章を書いてきたが、「読まれるため」の文章を私が書いてきたという自信がなかった。私は読まれるためではなく、自己満足のために文章を書いてきた部分があるかもしれない。その書く姿勢がもしかしたら、人を不快にさせてきたかもしれない。

言葉は、何かを人に伝えるためにあるのであって、自慢や自己満足のためにあるのではない。だったら、言葉が人を不快にさせて、それが原因で伝えるという役割を十分果たせていないのであったら、それは言葉として失格だ。小規模でも公の場に公開しているならば、なおさらそうだ。

しかし私は言語を、伝えるという用途だけでなく、思考を整理するという用途でも使っている。このブログで公開している文章はほとんどそうである。これらの文章は本来公開されるべきではないのかもしれないが、書いたのにしまっておくのはもったいないから言語訓練ということで公開してしまおうというのがこのブログである。

このブログに投稿されている文章は習字の練習書きのようなものであり、本来公開されるべきでないという事への自覚が足りていなかったように感じた。

そして、用途が思考の整理であろうとも、言語であることには変わりがないため、少なくとも「書く姿勢」では、読んだ人を不快にさせないようにしなければならないと思った。これからは、公開非公開に関わらず、そのような努力をしていくつもりである。

特に「想像/創造の余地」は、私の肝いりの題材なので、自分の思考にとどめずに、広く知ってほしい、分かってほしいと思っている。これについては、いつかきちんとした、「みんなに伝えるための」文章で改めて公開すると思う。今の状態ではあまり思考が整理しきれた文章ではないし、その上とっつきにくく、読みにくい、分かってもらいにくい文章だ。

 (このブログは私の言語訓練に用いられます)